会員の声

第二章 基本

一 絶対基本

空天会は、自分自身をしっかり表現できるようになるには、身体を作る段階、心を鍛錬する段階があると考えています。

「身体を作る」と言うと、筋力をつける、体の柔軟性を高めるといったイメージを連想すると思いますが、少し違います。空天会は、自分をしっかり表現するには、一体感のある動きができる身体が必要だと考えています。一体感のある動きとは、手だけ、足だけの動きではなく、すべてが一体となった動きです。この一体感のある動きは、自分の中心をまっすぐ貫く軸がなければ表現できません。軸を知り、それを広げるためには最低限の筋力が必要です。そのために基本と定めた動きを、正確に、繰り返し行い、身体を作ります。この基本を、空天会は「絶対基本」と呼び、唯一無二の絶対のもの、迷ったときに立ち返る基準となるものと定めています。

「心を鍛錬する」と言うと、どのようなイメージを連想するでしょうか?

厳しい環境に身を投じ、そこでの苦難を乗り越えることで心を鍛えるといった具合かもしれません。空天会はどのような状況でも、自分自身をしっかり表現しきることを目標としています。緊張して身体が固まってしまう、あるいは高揚して一体感のある動きができないといった状態にならないように心を鍛錬する必要があると考えています。そのために基本と定めた動きを、正確に、繰り返し行います。この基本も、空天会は「絶対基本」と呼び、唯一無二の絶対のもの、迷ったときにたち返る基準となるものと定めています。

絶対基本の動きは単純です。その動きを、正確に、緻密に、厳格に行えるかどうか次第です。少しでも違えば、それは絶対基本ではありません。空天会は絶対基本を、できるだけ正確に、繰り返し行うことで、身体と心を作ろうとしています。稽古の際には、その人の体質に合わせるようにしています。人は其々体質が異なります。例えば、身体が柔かい人・硬い人、体重が軽い人・重い人といった具合です。各人が自分自身の体質に合わせて絶対基本を行っています。

空天会はただ立っているだけで治まるような状態を最終的な目標としています。江上茂先生は「組手はただ立っていればいい」と話していました。相手に触ることもなく、ただ向き合うだけで、お互いに分かり合い、治まる。そのような状態に至ることが目標です。ですから、礼と正座をとても大切なものと考えています。まっすぐ座って、頭を下げて、上げる。たったそれだけの動きの中に、たくさんの要素が含まれていると考えています。これからも探求し続けます。

二 落とす

空天会の訓である、「落とす」をモットーに、頭と体の覚えて自然に動けるように稽古を行なっております。

基本である騎馬立ち、追突き、下段払い、稽古では、体の中心はどこにあるか、軸は曲っていないかを注意、確認をしながら動いています。

組手の稽古では、突く方と受ける方を決めて行なうので、私は先に受け側をし相手から感じた事を体で動いています。それが、相手の状態であるかを確かめて確認します。又、自分が何かをしようすると相手はどうなるのかも見ます。

それにより、自分の状態がわかるのです。体が硬くなっている。肩に力が入っている。落ちていない等が分かるのです。そこから修正しながらひとつひとつ出来るように稽古をしています。

後は、気持ちをどのように持って稽古をするかですが、素直に相手を受け入れて素直に前に出してあげれば良いと思います。

もっともっと「落とす」を追求して行かなければならないと感じています。

空天会の稽古は、自分の体、心の状態を確認し自ら何かを見い出す事により前に進む事が出来る稽古である思います。

三 「闘争を超える」に対する考察

「闘争を超える」に対する考察

江上先生の「闘争を超える」というお言葉を、水島先生は元より諸先輩方からも何度も聞かせていただいています。しかし「戦い」という意味での闘争が、今の私の生活からかけ離れていますし、「闘争を超える」ことを自分の身において理解するのはとても困難でした。

そんな中、あれやこれやと考えて最近、こうであろうと自分自身には言い切っているイメージがあります。そこで(本当に本当に僭越なのですが) 、今の自分にとっての「闘争を超える」ことを以下に述べさせていただきます。

「闘争を超える」とは、相手と「摩擦のない状態」をつくることであり、「摩擦のない状態」をつくることは「自分を認識する」ことから始まると考えています。闘争自体は、敵対心を持つなど相手に対して気持ちが動くことですが、「闘争を超える」時は自分自身を認識することが重要で、例えば相手を受け入れたり相手を理解する等といったような相手を主体にすることは無く、相手の存在は「自分が置かれている環境の一部」であり、動くのは自分自身だけだということを、経験を通して感じました。

闘争を超える」とは相手と「摩擦のない状態」をつくること

闘争は、言い争いや腕力での喧嘩であったり戦争であったりしますが、それを突き詰めて考えていくと、闘争は心の葛藤、つまり心の摩擦だと感じます。

こう考えるに至ったのは、まず、先輩方から聞かせていただいた江上先生のお姿のイメージがあります。江上先生についての多くのお話の中で「先生に会う人は誰でもその瞬間から先生に魅了されてしまう」というのがあります。これは、自ら気づく前に、先生のお姿に「完敗!」して、無意識的に先生についていきたくなってしまうのでしょうか。これが闘争を超えた故のお姿なのでしょうか。

ところで、われわれ自身日々の組み手稽古で体験しますが、相手の手を握って、間がしまっている時、自分の意図するように相手が共に動きます。そこで、間がしまっている状態をじっくり観察してみると、手がずれて擦れるなど物理的摩擦がまったくありません。そして握られている方も実はとても心地よく感じています。私自身は、心地よいものからは離れがたく、その状態をあえて断ち切りたいとはなかなか思えませんし、もしこれが多くのヒトにも言えるなら、ヒトは潜在的に”共に動く仲間を求めている”のかもしれません。心も同じで、ヒトは本能的に同志を求める生物なのかな、心底安心できるヒトに出会った時は、(相手がたとえ敵だったとしても) ついていってしまうのではないのかな、と。つまり、江上先生は、相手を受け入れて、心も間をしめて対面されているのではないかとイメージしました。

間がしまっているというのは、摩擦がない状態です。心にも摩擦がないとお互いに心地よく、共に活きたいと感じ、逆に摩擦があると拒絶感や対立を生んでしまいます。この対立のない、摩擦のない関係を保てることこそが「闘争を超える」ということなのではないか、と考えています。

「摩擦のない状態」をつくることは「自分を認識する」ことから始まる

さてここで、闘争を超えた状態は心身とも相手との摩擦のない状態だとすると、次は「闘争を超える」つまり摩擦のない状態になるにはどうしたらよいのか、ということになります。まず、一般的な表現で言うと「自分が心を開く」「心に壁を作らない」ことだと考えました。空天会的アプローチでは、体を緊張させない(私的には特に大胸筋あたりですが)。そして体を緊張させないためには、自分を全てさらけ出す勇気が必要だと度々思い知りますし、(未熟な) 自分の心の動きを認識することがまずは第一歩だと感じました。こう感じるに至ったのは以下の経験からです。

ある日、おおきな「葛藤=摩擦」が生じました。

先日、Aさんに対して、その仕事の仕方に納得がいかず、かなりムッとしてしまいました。これは心の摩擦です。当然私は、相手を受け入れよう、と努力しました。しかしAさんの姿勢を「受け入れる」のは非常に辛く、まるで苦くて体に良くない物を飲み込むようです。そんなものを無理やり飲み込もうとしても心にシコリが残ります。そんなシコリが翌日になっても残っていて気が重くてしかたありませんでした。そこでふと、今の自分には相手を受け入れられないのだ、と気付きました。そして次に、自分の気持ちを受け入れる努力をしてみました。相手のことは置いておいて、”相手を受け入れられない未熟な自分”を、しっかり受け止めることにしました。するとその瞬間、Aさんのことは視界からなくなり、同時にAさんに対する「ムッ」が消え去りました。自分の心のシコリらしきものがなくなったのです。

所詮私のような小人にとって、ヒトは、飲み込む(受け入れる) には大きすぎたのです。なのに無理やり飲み込もうとしたので、結果、消化不良です。心の広い理想の自分からかけ離れた、自分の小ささ、弱さを認めるのは勇気がいることですし、見栄が邪魔をしてしまいますが、それを認め、未熟な自分の心の動きを認識した時、相手との摩擦がなくなりました。そして気持ちが楽になり、前向きな自分を感じました!

四 集中と緊張、腑抜けの違いについて

一般的に、「集中」という言葉の意味は、ただひとつのことに力を注ぐように努めることです。
「集中」という言葉から連想されるイメージは様々だと思います。例えば、組手で相手の突きを受ける側になったとき、相手がいつ出るのか見逃すまいと体を固めて相手を凝視している様や、先生の話を聞き漏らさないように体を固めて聞いている様も、「集中」しているイメージとして連想されるかもしれません。
空天会では、例に記したような状態は「集中」している状態ではなく、「緊張」している状態と区別しています。そのうえで「集中」という言葉を「落とす」という行為と紐づけて用いています。「落とす」という行為は、体を柔らかくし、心を鎮め、軸をまっすぐにして、念いを軸に沿って真下に落とし続ける行為です。この落としている状態が、集中している状態と考えています。また、単に体を柔らかくしただけの状態を「腑抜け」と呼び、集中している状態とは異なる状態と区別しています。
落ちている状態(集中している状態)になることによって、三百六十度、全方向に相手の正面を取って対応することができるようになります。イメージは球体です。相手の正面を取るという行為は、相手の軸とまっすぐ向き合い、ぴたりと合っている状態にする行為です。相手の正面を取ることによって、自他一体(自自一体)の動きができるようになると考えています。