会員の声

第一章 空天会の稽古全般

一 江上空手道

空天会は江上茂先生の稽古を私たちなりに解釈して行っています。江上茂先生が示した「至上最高への道」を探求することで、自分自身の人間性を知り、より成長することを目的としています。この目的は、空手という言葉から連想される一般的なイメージとは異なる目的かもしれません。空手のイメージは、特別な訓練を通じて普通の人にはない体力と技術を身につけ、他者から危害を受けそうになったら、その力と技を駆使して回避する、そのようなイメージではないかと思います。

私たちが取り組んでいるのは「空手道」です。江上茂先生が示した「江上空手道」の目的は、闘争を超え、一生をかけて自分自身を向上させ、その過程の中で人間というものを探求することと解釈しています。ですから、相手に捉われず、自分自身をしっかり表現できるようになることが大切だと考えています。相手をやっつけてやろうとか、相手をどうにかしてやろうなどと考えて、相手の変化だけを意識するような稽古は気持ちが荒み、何のために稽古をしているのか、分からなくなると考えています。

空手道の段位は五段を最上位としています。江上茂先生は、五段となった状態を本当の稽古がようやくできるようになった状態と考えていました。五段をスタート地点と捉えて稽古を続けていけば、その先への「方向性」が分かるようになります。方向性はひとつではありません。ひとつの方向性が分かるようになると、その先にある幾つもの方向性が分かるようになるといった具合です。例えて言うなら、山の頂上を目指して登っているようなものです。空天会は江上茂先生が示した道を通って山頂を目指しています。江上茂先生が辿り着いた高さまで登りつめ、その先の道を切り拓くことが恩返しになると考えて稽古に取り組んでいます。江上茂先生だから辿り着けたが、普通の人は辿り着けないとは考えません。志のある人が正しく稽古を続けていけば辿り着けるよう、江上茂先生が道を作ってくださっているからです。あくまで自分次第と考えています。

空天会は稽古人同士の調和が重要と考えています。稽古相手は自分の状態を表現してくれたり、自分の歪みや誤りを教えてくれる大切な人です。稽古だから許される事柄をしっかり理解した上で、志を同じとする仲間と取り組めば清々しい気持ちで稽古を続けることができます。江上茂先生は先生と呼ばれることを嫌っていました。稽古仲間を道友として捉えていたからです。とはいえ、教えて頂く人からすると敬う念いがありますから、その念いをそのまま表現することになります。この敬う念いを繋げていくことで大切で、その念いがあるから稽古を継承できると考えています。

二 治めること、主体は自分自身

空手道も武道の一つですが、武道とは、どんな道なのでしょうか。

「武」という字は、それ自体、攻撃的なイメージがありますが、漢字の作りから「戈(ほこ)を止める」、つまり「攻撃を止める」といった意味に解釈されると聞いたことがあります。

「攻撃を止めること」は、「対立や争いを止める」ことで、「守り」や「防衛」的なイメージがありますが、その方法として、対立している相手をより強い力で抑え、屈服させても、おそらく対立や争いの根は残り(むしろ大きくなり)、再発するかと思います。

そこで、「止める」というよりも、むしろ「対立や争いを治める(収める)」ことが必要ではないかと考えています。「治める(収める)」ことは、相手の対立心、争おうとする想い自体を、相手と調和することによって無くすことであり、その根が残らないように解消していくことと考えています。

さらに進めて、そもそも対立を生じさせないこと、対立が起きる状態、状況を作らないことが、目指すべき姿ではないかと考えています。

「(剣を)抜かれたら負け、(剣を)抜いたらなお負け」とおっしゃった方もいます。

この目指すべき姿へ至るための方法が「武」であり、それを探っていくことが「武道」ではないかと考えています。

対立とは何でしょうか。

互いにでも、一方的にでも、相手をどうにかしようとした場合に対立心は生じます。

相手が望みもしないことをしようとすれば、抵抗されるのは当り前です。

相手に勝とうとか、負けないようにしようと思うことは、相手をどうにかしようとすることに直結します。相手がこうきたら、ああしようとか、隙があったらとか、先手をとってとか、全て該当します。

組手の場合、相手に身構えさせたり、力ませたりしたら、対立心があるということになります(前述の「(剣を)抜かれたら負け」の状態です)。なぜなら、相手をどうにかしようとすると、自身が身構えることになり、力んでしまうことになり、そして、相手はそれを自然と察知して同じような状態になるからです。

対立心のある状態で組手をしても、対立した状態を具現化するだけで、衝突したり、無理に組伏せたり、最悪の場合は相手を傷つけることになるかもしれません。うまく対応できたつもりでも、相手の二の手の状態はどうでしょうか。二の手が出るような状態では、対立は残っており、治(収)めたことにはなりません。

相手との対立をなくすには、どうしていけば良いのでしょうか。

相手をどうにかしようといった、相手を主体とする考えを捨てて、自分自身を主体とすることとが対立から脱する方法と考えています。

相手が目の前にいれば、相手がどんな状態でいるのか、どうしようとしているのか気になります。それは、相手にとらわれている状態であり、自分自身を見失っている状態(自分で自分の状態が把握、制御できない状態)でもあります。それは、自分自身の根底に何らかの不安があるから、相手のことが気になるのではないでしょうか。

であれば、まず、自分自身の安心、安定を確立することが大切です。自分自身の中に安心を感じ、それが安定していれば、自分自身を見失うこともなく、相手のことも気にならなくなります。これは、決して、相手を無視するということでなく、相手にとらわれることなく、自分自身を確りともった状態で、相手に臨むということです。

自分自身の安心、安定を確立するには、自分自身の様々なバランスを整えていくこと、つまり、「中心」、「軸」、「落とす」といった「基本」要素を、徹底的に全うしていくことが必須です。

三 空天会稽古心得

空手の道は、稽古仲間が心を一つに共に歩むもので、一人では、なかなか歩き通せるものではありません。

なだらかな道や険しい道、灼熱の道も極寒の道も、仲間がいれば歩き続けることができます。道とは教えであり、過去から未来へと続く真理です。

稽古の「稽」という字の本来の意味は、「考える」ということです。

古は「いにしえ」であり、過ぎ去りし日々です。

稽古の意義は、古の先人の想いを顧みて、脈々と受け継がれてきた教えを実践することにあります。何の気負いも、てらいもなく、ただひたすら基本に忠実であることが第一義です。

基本はそもそもの始まりであり拠り所です。基本を外れれば全てが狂うことになります。

また、稽古には空しい競い合いや闘争の存在する余地はありません。

なぜなら、闘争を力で収めようとすれば、新たな闘争を産み、果てしなく闘争が続くことになり、稽古は、人を殺める技術だけを磨くものに堕することになります。

空天会の稽古は、稽古仲間が互いに相和し相信じ、共に高め合うものです。

広い天と地の中で、仲間が出会い集うことは深き縁というほかはありません。

空と天を仰いで地を想い、地を望んで空と天に想いを馳せつつ、己が今此処に在ることと、稽古が出来ることに感謝したいものです。

四 その他

  • 空天会は、筋肉を鍛え、腕力を高め、破壊力をつけることを目的にしていません 。武道やスポーツの種目にかかわらず「いままでと違った視点で考え直してみたい」と思うような人の中には、とても興味深いところがある稽古かも知れません。
  • 空天会は、自分の心身を理解し、染染味わい、十二分に使いこなすために稽古を続けています。それにより日々の生活を積極的に楽しく自然体で過ごせるようになるのではないかと思っています。
  • 私たちが行っている日々の稽古は同じことの繰り返しであり、どれほどの進化があるのかは傍から見ていたのではまったく分からないでしょう。 自分自身が思っている以上に自分の体は動いてくれません。ましてや、相手を目の前にしてはその数倍も大変なことです。
  • 一生かかっても達成できないくらいの内容だと思って掛かれば焦らなくてすみます。
  • これまで基本と思っていたことは理に合ったものか(誤った理解、誤認識はないか)、この形は基本と照らし合わせて合っているのかなど、先入観に捉われず、繰り返し見直し、常により純粋な基本を探求するよう心掛けたものです。
  • 基本の大切さを知り、本当の基本を探求する稽古です。